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松岡亮はいくつもの表現スタイルをもっている。
日々を綴った絵日記作品、絵本のようなBOOK、散文のような組み絵、旅の記憶、刺繍、屋上……
他にも様々あるけれど、それらすべてには一貫して「言葉」という要素が存在している。
それはいまの言葉に言い換えると「つぶやき」のような、自身へ向けたそのときの刹那的な「言葉」。
そんな表現スタイルの1つに、ライブペイントのように聴衆を前にして現場で描く『play pray paint!』と題されたものがある──
スタイルというよりはむしろ活動といったほうが近いかもしれないこの『play pray paint!』には、
彼の「つぶやきのような言葉」に対するスタンスと、作家としての人生観そのものが現れているように思える。
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その描く現場を体験するときは、はじまりの線の美しさにいつも、えもいわれぬ予感を感じながら魅入ってしまう。
軽く狂気をはらんだ彼の美意識が、そこに結露する瞬間に見せる一瞬の美しさ。
黒鉛独特の鈍い光を湛えたその線からは、宗教儀礼のそれのような高貴な予感をも感じる。
この幻のような一瞬の後、彼はその場の空気や出来事など、空間にあふれるよろずの事象を一口で飲み込み、
そしてゆっくりと吐き出すように、しかしものの見事にあっという間で一枚の絵を描き上げてしまう。
その姿はまるで、何かをぶつぶつと「つぶやく」ように、発露するイメージの破片を片っ端から、
その手で直接塗りたくっていく、筆を持たずに直接その手で。何かが気にいらないのか?
一度描いた上を白ペンキで覆い隠したり、または黒ペンキで一面塗り潰したり、足の裏で擦り付けたりもする。
このどうしようもなく稚拙ともとれる表現の行為によって、果たしてまっ白だった一枚の画用紙は、
彼の「つぶやき(=思考)」の断片で、いっぱいに塗り尽くされてしまう。
紙と手と絵の具とがこすれあう、《乾き》と《湿り》の音を交互にリズムにのせながら。
この表現の現場からこちらが視覚と聴覚で聴取出来るものは、刻々と変容する現場自体の面白さであったり、
圧倒的なセンスによって構成された絵画としての力、といったことが印象的に際立ってくるのだけれど、
そこからもう一歩作品の本旨に踏み込もうとすると、その「つぶやき」で満たされた空間はたちまち難解さを増し、
こちらはただ阿呆になったようにぽかんと口をあけて眺めるほかなくなってしまう。
この構築された巨大なマインドマップにこちらは言葉をなくし、ただ圧倒されるだけに。
でたらめで落書きのようで悪戯のようなこの表現について、幼児性の魅力と表したりするかもしれないし、
落書きのようなという一点からグラフィティと一緒に語られることもあるだろう。
絵の印象から受けるものは、他にもいくらでも広がりをみせるだろう。
ただ、より興味深く考えさせられるのは、絵の印象からうけるものではなく「play pray paint!」の現場での、
昨日と今日と明日は作品だけでなく、彼自身も変化しているというところにある。
それは当たり前のことでもあるけれど、瞬間瞬間の自分自身の変化で起るだろう《他者とのディスコミニュケーション》をも軽妙に楽むように、
常に自覚して変化し続けているというこの行いが、何かしらに対するアンチテーゼのようにも受け止められ、
彼本人にその意識が有るか無しかに関わらず、表現者自身の主体性、表現するということの意味を、
引き出す行為になっているのではないだろうか。そんなふうに考えさせられる。
だからといってこの活動は、エポックで示唆的なパフォーマンスではないし、インスタレーションとしての方法でもない。
考え尽くされた上での社会へ対する最後の切り札、といった類いの辛辣な活動ともまったく違う。
その場かぎりの「つぶやき」の集合。そのときその場に彼をとりまく《物・事・人》と《彼》との関係から産まれる「つぶやき」を、
そこに定着するために自然に出来上がった唯一で完全な方法が「play pray paint!」という活動で、
それ自体は出会う瞬間をたのしむという、とても陽気な活動であったりもする。
それが結果として現状に対する大きなカウンターの力をもった武器になっている──
などという戯れ言めいた勝手な独説はもとより、この誰にも真似出来ない、長い時間をかけて形作られた活動……
というか誰も真似しないともいえるのだけれど、どちらにせよこのまぎれもない唯一性には、
それだけで魅了されてしまう強い吸引力が確かにある。
素直でとめどもない「つぶやき」の吐露。そんな、こどもじみて狂った彼の「思考のゲーム」を楽しむとき、
絵の具をその手で直接に塗るというエロティックな行為と相まって、こちらの思考の《知性》と《野生》の部分は交互にくすぐられる。
そしてなによりも、あの「はじまりの線」の美しい予感、そこに含まれる強烈な中毒性にやられてしまったいま、もはや後戻りができなくなっている。
端的に美しく、混沌として、まれに激しく、ときにシンプルで、そしてまったくわからない。……
わからないものはわからないままに──そう陽気に受け止めながらも、ついついどうしようもなく考えさせられてしまう。
そんな──こちらの姿を見て松岡亮はきっと、「おもしろいね」とつぶやきながら、ラテンな笑いを響かせているにちがいない。
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牧 唯
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